白アザラシのボード
シャア・アズナ… 6月29日 10時 /ネタバレ注意?… 6月13日 10時 /名人戦第五局古… 5月31日 5時 /ジークアクス世… 5月8日 0時 /メモ 4月3日 23時 /オルクセン王国… 3月30日 22時 /SABATONのメモ 2月11日 9時 /SABATONのアル… 2月8日 11時 /ネタバレ注意 … 1月27日 22時 /日本人の日本人… 1月23日 16時
メッセージ一覧
本命 シロウズ(シャア)
まぁこれが大本命だろう。行方不明だったシャアが偽名を名乗って現れるってZとまったく同じ構図をやる。で、奴がシャア専用ザクに乗るにしても赤いガンダムに乗るにしても、ファンネルを搭載した最新鋭機(キュベレイ=ジフレド)VSサイコミュで反応性を極限まで高めた機体(ジ・O=ジークアクス)VS旧式の見どころのないMS(百式=シャア専用ザク、赤いガンダム)って構図まで同じになるわけだ。絶対に庵野がやりたがるじゃないすか。しかもシャアには恐らくマチュとニャアンの両方と敵対する動機がないとは言えないし、マチュとニャアンも変なのが出てきたからいったん共闘を考える程度にはまだ仲良し、なんじゃないかなぁ。だったらいいなぁ...


次点 シャリア・ブルもしくはエグザベ
イオマグヌッソ外部と内部で同時進行で戦いをやって外部の戦いで勝った方が内部に加勢しに来る。正直エグザベ側は数の優位があるにしても、シャリアと力の差がありすぎてあんまり勝ち目がないんじゃないかと思う。だけど最後の最後で辛くも勝ち切ったエグザベが王子様みたいにニャアンを助けに来る構図が見たくないといえば嘘になる。でもニャアンが勝ってしまうと話としてまとまらないんじゃないかなぁ。キケロガにわざわざMS形態を用意してきたのって過去の構図を何かしらシャリアにオマージュさせたいからじゃないかと思うんすよねぇ。


で、今週マチュとニャアンはチャカをもらったわけじゃん。だからMS戦をやるけど結局決着がつかなくって降りて拳銃を向け合うって展開は絶対にやらなきゃならないんだよな。つまりこれって初代の最終話「脱出」や逆襲のシャアのアクシズ内部の戦いと同じわけですよ。むしろ、エグザベやコモリンはここでのセイラさん枠を担うんじゃないかという気もする。あとせっかくホワイトベースとコアファイターが揃ってるんだから「まだ僕には帰れる所があるんだ、こんなにうれしいことはない」をやる気もする。ここでコモリンの見せ場を作るのか?ただこれをやるにはマチュとソドンクルーの関係が浅すぎるんだよなぁ。ぶっちゃけアイツソドンが沈んだところで大して何の感慨も持たないし、むしろざまぁみろとか言い出しかねない気さえする。それとも土壇場で母ちゃんが再登場してマチュを抱きしめてやるんだろうか...放蕩娘が最後に自分の居場所を見出して少し成長して家族の元に戻る。これも美しい構図ですよね。


備忘録かねて以下将棋の内容について。まず名人戦って何ぞという話だが、言うまでもなく将棋界最高の称号を掛けたタイトル棋戦であり、野球で例えれば日本シリーズである。じゃあなんで名人が最高のタイトルなのかという話である。一言で言うと名人を取るのはクッソ大変だからである。
名人戦の下部リーグは順位戦と呼ばれていて、いわば将棋界全体での序列争いである。将棋でプロになるとこの順位戦の参加資格を得て一番下のC級2組に組み込まれる。言い換えると将棋のプロとは順位戦への参加資格のある者と言えないこともない。順位戦では一年をかけて9試合を行い成績に応じて組内で順位をつける。そして成績上位の2名は上のリーグに昇級し、悪かった2名は降格する。順位戦リーグはC2、C1、B2、B1、Aの五段に分かれていてA級リーグで一番成績の良かったものが前年度の名人への挑戦権を得る。これが名人戦である。従ってどれだけ強かったとして名人への挑戦権を得るには5年がかかるわけだし、その5年間成績の拮抗する棋士を相手に好調を、それも昇格のボーダーは7勝と言われるのだから相当の好調を保ち続けなければ挑戦権を得ることさえできないのだ。そういうわけなので現在のところプロ入りからストレートに名人挑戦まで行った人間はいない。羽生先生は各1年づつ足踏みをしたし、藤井名人でさえC1で一度足止めを食らっている。今回の挑戦者の永瀬先生に至っては2009年のプロ入りから苦節16年目の名人初挑戦である。全くの余談であるが、さすがに名人挑戦は逃したが、史上唯一A級まで足止めを食らわずに昇級した男がいる。ひふみんこと加藤一二三である。


今更言うまでもないことだが藤井名人は強い。とても強い。どのくらい強いのかというとストレートに4勝して名人防衛を果たしてしまうのではないかというくらい強い。古河は第5局なのだからストレート勝ちしてしまうと手元の2日分のチケットは祝勝会のチケットになってしまうとひやひやしながら見ていた。流れが変わったのが第4局の1日目の夕方である。本第5局でも発生した千日手が発生した。千日手というのは簡単に言うとお互いの駒が同じところを行ったり来たりして勝負が進まなくなることである。千日手になるといったん引き分けという形になり、先手と後手を入れ替えて最初から将棋を指しなおすことになる。
特に藤井永瀬両名が得意とする角換わりと言われる戦型ではこの千日手が発生しやすいらしい。この角換わりという戦法はAIの発展により終盤に至るまでのかなりの変化が既に研究されていて、どうも将棋界のトップであるこの二人をはじめトッププロ達は膨大な変化の内、どれが良い形で悪い形なのかというのをほとんど把握しているらしい。怖いね。だから、序盤の僅かな差がその後の変化に影響してくるため駒の配置のわずかな差であってもお互いに譲ることができない。
将棋というゲームは僅かであるが先手が有利なゲームである。拮抗した実力同士なら先手は大体6割程度の勝率があるといわれている。これが藤井名人となると8割5分くらいの確立になる。まぁあの人後手をもっても6割6分の勝率があるわけですが。さらに言うなら角換わりにおいては先手の有利がさらに大きいらしい。
故に、下手に千日手の打開を目指して後手で不利な手を指すくらいなら、一度千日手に持ち込んで自分が有利な先手を持って最初からやり直すという戦術が成立するのである。


第4局では恐らく後手の永瀬先生がこの戦術を取った。千日手時点で3時間の持ち時間の差を作って差し直しに持ち込んだ。有利な先手に持ち時間の大幅な差。実質的なハンデ戦のような状況に持ち込んだのである。泥臭く勝利にしがみつく棋風は"軍曹"永瀬の真骨頂である。21時を過ぎ大盤解説の中田功先生が「ここで解説を放り投げたら一生言われることになる」と会場のスタッフに頭を下げ延長を勝ち取る場面まで飛びだす長期戦の末、終盤に藤井名人が指した疑問手にも助けられ永瀬先生が一勝を勝ち取り、第5局、古河対局が実現する運びとなったのである。


さて、長い前置きの末ようやく第5局の話になる。永瀬先生の先手で始まった第5局はやはり角換わりの形で始まった。大盤解説の始まった昼休憩明けの段階で後手の藤井名人は右玉と言われる形に構えていた。
将棋には居飛車と振り飛車という形がある。飛車という十字の方向にならどこまでも動けるとても強い駒がありこれを初期配置の右側で使うのが居飛車で左側に持って行って使うのが振り飛車だ。将棋というのは玉が取られてしまうと負けのゲームだが、飛車を取られてしまっても負けとは言わないがかなり辛い。玉と飛車が近くにいると一緒に攻められてしまい玉を守るために飛車を切り捨てるということになりやすい。だから「玉飛接近すべからず」といい、通常、居飛車の場合は飛車のいない左側に玉を囲うし、振り飛車はその逆をする。角換わりというのはお互いに居飛車の時の戦法だから、普通なら互いに左側に玉を置いて攻め合う形になる。これをあえて片方、通常は後手が右側に玉を配置して相手の右側、自分から見て左からくる攻めをかわそうというのが右玉である。


<メタ解説>
原作のキーファー岬海戦は書籍化されてる内容の中で一番好きなエピソードである。噛んでも噛んでも味がする。ぶっちゃけこの部分に比重を置いて再構成した小説を掛けるんじゃないかという気がしてきた。ので「明治天皇と日露大戦争」的な戦後すぐの邦画的なノリで映画化することを考えて脚本化することを考える。会話の内容や具体的描写を増やす。映画的な脚色として、屑鉄戦隊はシルヴァン川でアンファングリア旅団を援護していること、アンファングリア旅団はファルマリア追撃戦後、再編成の為キーファー岬海戦(11/29)後の12/5までファルマリア港に留まっていることから、メーヴェ乗員とアンファングリア旅団の間に交流があったものとして描く。


1941年4月28日、駐伊ギリシア大使にムッソリーニからの手紙が届けられる。「ギリシアは直ちに当方の指定する重要拠点を明け渡せ。期限はこれより3時間。さもなくば...」。この報を聞いた首相は、ほとんど反射的に叫んだ。「 OCHI(Noだ)!認められるか!こんな要求!」ギリシアには戦車も戦闘機もない。その瞬間にこの、内部分裂状態にある国家の命運は決まったようなものだった。にもかかわらず、この報を国民は喝采を持って迎えた。「やってやろうではないか!我々は二千年の昔にたった300人で数万の敵に立ち向かったスパルタの末裔なのだ。ヒトラーの腰巾着に目に物見せてくれようぞ。」自由か死か。ギリシアは団結し敵に立ち向かう。


SABATONのアルバム、The War To End All Warsの感想、というかぶっちゃけSarajevoと Versaillesの感想


第一次世界大戦を語るとなったらサラエボ事件で始まってベルサイユ条約で終わるというのは必然であるように思える。でもヨアキムがすごいのはそうじゃないところだ。SarajevoとVersaillesは同じメロディに合わせてそれぞれの事件についてナレーションが入るという形で進行していく。「1914年の夏、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナントが暗殺され...」とか「フランツ・フェルディナントの暗殺から5年の歳月が流れ、ついにドイツは無条件降伏に同意した」とか。でナレーションの合間にはコーラスが入る。Sarajevoでは「一発の銃弾が世界を変える!緊張が高まり戦争はもはや避けられない!これまでとは何もかもが違う!これはすべての戦争を終わらせるための戦争だ!」。


Versaillesでは「条約への調印がすべてを変える!緊張が解かれ平和がやってくる!これまでとは何もかもが違う!条約への調印が戦争を終わらせるんだ!」。ところが、これでめでたしめでたしとはならない。このコーラスを2回やった後にナレーションが入る。「しかし何かが闇の中で成長している。誰かにとっては戦争は終わっていないのだ」。そして再び「一発の銃弾が世界を変える!」のコーラスに戻ってしまうのだ。だけど希望がないわけじゃない。誰かが疑問の声を上げる。「この戦争は本当にすべての戦争を終わらせるのか?」「戦争は本当に戦争を終わらせられるのか?」「この戦争は他の戦争を運んでくるんじゃないのか?」。だけどそんな疑問は声の大きな誰かにかき消されてしまう。「この戦争はすべての戦争を終わらせるための戦争なんだ!」。


更に言うんなら、これは本編冒頭を再構成して劇場公開用としたって触れ込みなんだけども、アレ、冒頭のはっちゃけたアレは本当に第1話のパートなのか、という疑念が視聴後しばらくして出てきて。友人とも話し合ったんだが、あの部分って別に話の冒頭に持ってこなくても理解を妨げるものではないんだよな。寧ろ進撃の巨人みたいに後半の山場、第二期第1話とかに持ってきた方がインパクトがある気がする。客が続きを期待して持ってきたところにデーデーデデーンデーデーって期待したものではないけど知っている曲が流れて全部の疑問が氷解する、みたいな。そういう見せ方もあるよなって。まぁ劇場公開した時点でそれは無理かもしれないけど。

