私と後悔
メッセージ一覧
無垢、無苦、無口、骸。
彼女は異常なまでに無垢だった。不適切でないかもしれないけれど、社会に貧乏な人がいると信じてなかった。地球には彼女と髪の色も瞳の色も肌の色も違う人がいると信じていなかった。話す言葉が違うなんて信じていなかった。彼女はそれほどまでに両親に溺愛され、過保護に接しられ、幽閉されてきたのだ。
彼女が齢…いくつだろうか、まだ一桁だった頃、私はこの屋敷に執事として雇われた。
両親の様子がおかしい。すると、美しい金髪を揺らしながら、私の肩もない身長の少女が顔を覗かせた。
「よろしくね!」
そう言って差し出された小さな手を握ったことはよく覚えている。あの時は自分も10代だった、と今でもしみじみと思い出す。これではもう老けたような言い方だが、勘違いしないで欲しいのは、私はまだピチピチの20代ということである。まだ白髪は生えていないし腰痛だってない……いや、私の話ではなく、彼女の話をしよう。


「【彼女の世話をしている執事】さん!今日もお勉強教えて!」
と彼女は毎日のように私に抱きついた。図書館、食堂、どこにいても、彼女はそのように私に抱きついた。どん、と背中に来る衝撃に苦笑しながら、いつも私は彼女に本を読んでやるのだった。
「【本を読んでくれる執事】さん!ここ、どう読むんだっけ?えと…が、が、」
「がっこう、ですよ。お嬢様」
「そっか!ありがとう!」
そう、彼女は笑った。彼女は、もう二桁になっていた。
彼女が十三歳になった、ある秋の日の出来事だった。
彼女は外に出たいと言い出した。外に出たい、あの緑色のとげとげした、草に触れたい。と。彼女は必死に私に語るのだった。
「ダメに決まっている」
旦那様はそう告げた。彼女の泣きそうな顔が目に入った。今にも大粒の涙を零しそうな、そんな顔を彼女はした。
目が離せなかった。
うぇ、という嗚咽とともに、彼女は涙を流した。ぽろぽろと零れる雫が、頬を伝って顎から落ちる。鼻水をすする音と、押し付けたような泣き声だけが、部屋に響いた。
その光景が、それが、目に、耳に、焼きついた。どうしようもなく興奮して、押さえつけるために拳を握ってまぶたを閉じても、あの光景が、音が反響して、どうしようもなく興奮した。
最低だ。


「…失礼します」
そう言って部屋を出ると、焦り気味に自室に飛び込んだ。
最低だ最低だ最低だ。あんな、お嬢様の泣き顔に興奮するなんて。最低だ。
収まらない体の欲を吐き出しながら、何度も何度も泣いた。その日、彼女が私に抱きつくことはなかった。
翌日、私は彼女の父に呼び出された。
「【途中で逃げ出した執事】くん、しっかりしてくれんかね。ジュリエがあんなことを言ったのは初めてだからなぁ!君のせいなんだぞ!話を聞かんか!!」
「すみません、旦那様…」
ずび、と鼻をすすった。今部屋の中には私と彼、2人だけだった。彼女はここにいなかった。
「全く、君になってからこういうことばかりだ。次こんな事があったらお前をスラムに戻してやるからな!」
「…すみません、旦那様。失礼します」
がちゃりとドアノブを回してドアを閉め、私はため息をついた。
「…すらむ、ってなに?」
聞きなれた声だった。ハッとして声の元を探る。後ろだった。
「ねぇ、【スラム出身の執事】さん、なに?すらむってなに?」
ぐにゃり。顔を歪ませた。私はその質問に嫌悪を覚えた。
「…私も知りません」
それでも彼女はやめない。
「ねぇ教えてよ、なに?」
「…っ知りません」
「ねぇ、」
「知らないって言ってるだろ!!!!!!」
私の声が廊下に響いた。はぁ、はぁ、と肩で息をする。彼女を見れば、驚いたような傷ついたような、いや、悲しそうな顔をしていた。
あぁ、傷付けてしまったのだと、私は確信した。

