私と後悔
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元から私は異常であった。
何故私がこのことを自覚しているかというと、それはある日の出来事だった。
何の変哲もない、普通の人ならば記憶にも残りはしないほど、退屈な日であった。いや、ある意味記憶に残るのかもしれない。まぁ、これは置いておこう。この話の本題ではない。
その日私は、死体を目撃した。本当に目撃しただけだったのだ。帰り道を、仲のいい友達とも帰らず一人寂しく歩いている私が、ふと顔を上げたらそこには死体があった。言ってしまえば、ただそれだけの出来事だった。
当然、初めは驚き声もあげられないだろう。当時の私の年齢を考えれば尚更だ。その時私は膝が震え、歯を鳴らし…なんてことはなく。ただ呆然と目の前に横たわっている死体を見つめていた。自分でも驚くほど冷静だった。いや、冷静、と言うのは間違いだろう。あの時は決して冷静などではなかったのだ。自分でも驚くくらい…そうか、その時私は、驚いていなかったのだ。それが当然であるかのように、私は目の前に横たわる死体を平然と見ていた。そう、日常茶飯事の出来事かのように。
目の前の死体の名は知らない。どこかで見たことのある顔ではあったが、こんな都会の中でいちいち人の名前など覚えてはいられない。ただ、自分と同じ学年の人気者、ということだけ知っていた。それ以外は何も知らない。私とは違う世界を生きる、まるで太陽のような存在だったことは知っている。しかしそれだけだ。対話をしたことはまだしも、目が合ったことさえなかった。
私はそれで満足していた。性格の違う人と無理して話をするなんてまっぴらだ。こちらから願い下げだ。この考えは今でも変わってはいない。そんな人間が、今目の前で死んでいる。たまったもんじゃない。死ぬならもう少しマシな場所で…とは思うが、自殺者に人気があると言われているこの橋の下は、彼には比較的マシな場所だったのかもしれない。まぁその心理は私には理解できないが。


とにかく、私は彼が死んでいるという事実に、さほど驚いてはいなかった。ああ、やっぱり。なんて思っていたわけだ。実際、なにか嫌な予感はしていたし、彼の姿を見て悪寒が走ることはよくあった。前兆がなかった、と言えば嘘になるが、彼が死ぬと確信していた訳では無い。それでも、彼が目の前で死んでいるという、この光景が珍しいものとは思えなかったのだ。
そして私は、自分でも驚く行動に出る。何回自分で驚いているんだ、と突っ込みたくなるところだが、そこは置いておこう。私もその手の専門者ではない。
私は彼の頬を撫でた。そして、彼の手を握ったのだ。あぁ、冷たい。やはり死んでいる。彼に触れた時、そう思った。死んでいるかを確認するために触った訳では無い。むしろ、好奇心や興味の方が大きい。同級生の死体に興味を持つのは趣味が悪いどころでは済まされないが、それでも私は彼の体を触り続けた。
勿論、卑猥な行為をした訳では無い。私もそのくらいの年齢だったが、流石に男に欲.情するほど変な趣味でもない。私は今でも、きちんと女性が恋愛対象のままだ。
「…綺麗」
口から漏れたその言葉は、橋の上を走る車の音によってかき消された。しかし、その言葉に反応するかのように、私の目の前の死体の睫毛は風に吹かれている。私はそれが、彼の反応に見えた。
今、こうして骸となった彼を、自分が見ているということが嬉しくてたまらなかった。一度も話したことのない彼が、私の目の前でいつ殺.されてもおかしくない__実際はもう命はないのだが__無防備な体を見せている。それになんだか体がゾクゾクする。
これが、普通の人間の思考ではないことに、自分は気づいていた。気づかなければならなかった。うっとりとした表情で彼を見つめていることに気づかなければならなかったのだ。
ここが自分以外の帰り道でもあることを、私はすっかり忘れていて、全く人の通らない橋の下で彼を見つめていた。数分、きっとものの数分だっただろう。それだけでも長い時間に感じられたのだが、私はこれからもっと長いと感じる時を過ごすこととなる。
私の楽しいひとときは、ある男性の声によって、一瞬にしてぶち壊された。


「…キモ」
橋の上あたりから聞こえた、透き通るような低い声。声だけならば顔よし運動神経よし勉強よしの完璧人間と思えるが、口調からどうもそうではなさそうだ。気づかれても焦りがなかったのか、ゆっくりと声の方を向く。あぁ、やはり。
そこには、顔こそ良いものの、学校でも一二を争う不良の…名前は何だったっけ。坂本とか言ったかもしれない。まぁとにかく、先程まで体を触っていた彼と同じように、今悪態をついた彼もまた、私とは会話をしたことのない人物だ。
「えっと…坂本くん、だっけ」
途切れ途切れにそう言うと、彼は苦いものでも食べたかのように嫌そうな顔をして、俺は塚本だ、と訂正を要求した。残念、塚本だったか。人の名を覚えるのはなかなか楽ではない。
「塚本くん、誰かに言いふらすつもりか?」
別に不思議な噂が流れても構わないが、一応のため聞いてみる。ニヤニヤとしたいやらしい笑い方を見る限り、脅しにでも使うのだろうが。
それでも私は何も言わない。余計なことを話して口が滑ったら大変だ。私もそんなに馬鹿ではない。自分の漏らしてはいけない秘密はわかっているつもりだ。
案の定、塚本は私の先ほどの言動と行動を脅しに使った。私には仲のいい友人もいなければ互いを高め合うライバルですらいないというのに、誰に言い、誰に同意を求めるのであろうか。まぁ、それは私が知ったことではない。彼の心理は私にはわからないし、私の心理も彼にはわからない。
そんな哲学的なことを延々と考え込んでいるうちに、橋の上にいたはずの塚本は、いつの間にか私の近くにまで来ていた。なんて早い足なんだろう。私にも分けて欲しい。なんて冗談ぽく言うと、塚本は不機嫌そうな顔をして、やるか、と否定した。誰も本気だなんて言っていないのだが。
「ま、さっきのやつ、言いふらして欲しくなかったら、俺のいうこと、聞けるよなぁ?」
ああ耳障りな声だ。橋の上ならよく聞こえた声も、今となってはただの雑音でしかない。わざとらしく耳を塞ぎ、私は彼にこう告げる。
「…ご自由にどうぞ」


「んっあ、ゃっ…」
なんて耳障りな声だ。それが自分から出ている声だと気付いているが、私は声に出さない。できるだけ声は抑えたい。橋の下で行為をする男達と死体、というほどカオスな場面を、一般人には見せたくはない。仮にその人が私と同じ思考の持ち主でも、だ。出来ることなら、今すぐ自分を気絶させて、意識を失わせたい。そんなことは怖くてできないことを、私はまた知っている。
「ふ、んんっ…あっんっぁッ」
ダメだ。どうしても漏れてしまう甘い声に、私はうんざりとしてしまう。こんな声、行為を終えてしまえば喉の痛みの原因となるだけではないのか。出したくもないこの声を、どうやって抑えようか、私は考える。
彼はというと、上手とも下手とも言えない、普通の手際で私の物を咥えている。正直見るのはゴメンだ。女でも吐き気がするのに、男と聞いたら本当に嘔吐してしまいそうだ。これは冗談ではなくて、本当に。
「んんっ…ぁ、アッ」
うんざりだ。聞きたくない、聞きたくない。私の声なんか。私のこんな声なんか。
ジュプジュプと下半身から聞こえる音も、彼の荒い息遣いも、自分の無惨な喘ぎ声も、なにも聞きたくはない。
自然と出てくる生理的な涙を拭い、私は耳を塞いだ。そんなことをしても無意味なことは、私が一番知っているだろう。それでもこの行為をしてしまうということは、相当聞きたくないということだ。確かに、今思い出しても鳥肌の立つ思い出だ。


その後はどうなったのか分からない。ただ、起きた時にはもう空が暗かった。そして、腰に激痛を感じた。いつの間にかあの彼はいなくなっていて、橋の下には腰を抑え、激痛に涙を浮かべている哀れな少年と、一向に目を覚ます気配のない少年しかいなかった。あれ、塚本はいつ帰ったのだろう。ぼんやりとまだ目覚めていない頭で考える。こんなことを考えても結局いないことは同じなのに、と今では思うが、当時はそれはなかなか大事なことだった。
やはり、一時の遊び程度か。私はそう確信する。特に有力な証拠がある訳では無い。しかし、自分の服装を見る限り、相手が全く配慮してくれていないということは一目瞭然だろう。
「はぁ…」
小さくため息をつき、私は立ち上がる。腰の激痛ともお友達になれたのか、少しは痛みが和らいだ。腰の激痛とお友達なんて真っ平御免だが。
隣で安らかに眠っている彼は、私の帰りに寂しそうな表情一つせず、また目覚めもせず、そのまま眠っていた。当たり前と言ったら当たり前だ。もう彼の魂はここにはない。私はそれを身をもって体験したのだから。
冷たい夜風にさらされて、冷たかった彼はより一層冷たくなった。それええもまだ腐敗が始まっていないということは、死んでからそんなに時間が経っていないということなのだろうか。


「さようなら、私の愛しい人」
そう言って、比較的流れの緩やかな、すぐ隣の川に彼を落とす。ドボン、と重たい音がしたかと思うと、目の前にあった死体は川に沈んでいった。
そういや、水死体は膨れているんだっけ。そう、雑学に含まれるのかギリギリのラインの知識を引き出す。いや、実際はこんなことを考えなくとも、彼を見る機会は二度とないのだろう。彼はここで腐敗し、浮き上がってくることはない。そう断言出来る。見たところ、彼はもう川の底に沈んでしまっている。これはもうどうすることもできまい。
最後に彼の体温を感じたかった。しかし、当時の私には自分の欲望よりも自分の身体のほうが大事だったようで。気づけば彼は肉眼では見えないほど深く沈んでいて、後に残ったのは私の欲望に対する後悔だけだった。最後に触れたかった。そう、叶いもしないことを呟き、私は家へと一歩踏み出した。
腰の痛みは、相変わらず私を戒めたいようで、一歩歩く度に腰に来る痛みは想像を絶するほど痛かった。いや、想像したことなんて一度もなかったのだが。家に帰り、お世辞にもふかふかとは言い難い自分のベッドに体を預けた時、腰の痛みは必殺技を畳み掛けるように、私の体を蝕んだ。
くう、と声にならない悲鳴を小さく上げ、私は自らの腰を押さえる。何度さすってもなくならない痛みは、私のことを恨んでいるのかと言うほど長く続き、腰の痛みが消えたと思った頃には、もう学校へと通学する時刻であった。こんなことなら、意地を張ってでも私は自分の行動を否定するべきだったのだろうが、そんなことをしても結局は今の自分と何ら変わりのない光景が広がっていたはずだと私は確信する。どちらにせよ、彼に声を聞かれていた時点で、私はあの運命を辿るしかなかったのだ。


授業は無事受けることが出来た。無事、とは言っているが事が無かったわけではなく、むしろどちらかというと有ったと言っていい。
あの後私は、腹は絶対膨らまないであろう薄い食パン一枚を口にくわえ、家を飛び出した。勿論、その後は全力疾走だ。ここでのんびりと歩いているようでは、薄い食パンをくわえた意味が無い。いや、実際は、一歩踏み出す度に千切れていく弱いパンなど、くわえない方が効率的だったかもしれまい。まぁ、その時の私はそこまで頭が回らなかったのだろう。
千切れていく食パンを無理やり千切り、口の中へ放り込む。そのせいで、口の中は美味くもない食パンでいっぱいだ。これほどまでに体積が多いと言うのに、なぜ腹が膨れないのだろうと、今なら真剣に考えられるが、やはりその時はそんなことを考えている時間も惜しいため、私はただひたすら学校に向かって走り続けた。
実際は家と学校はそこまで遠くはないため、私が走ったところで、結局閉門の時間はすぐなのだ。ぜえぜえと息を切らし、学校に向かって一直線に走る。
まぁ、そのへんのことは割愛しよう。
案の定、閉門の時間はもう迫っていて、私の体が入れるか入れないかくらいの隙間しかなかった。こんなに大げさに言っているが、実際は遠くからでも私の体一つでさえ入らない隙間しかなかった。これは私が太っているとか痩せているとかそういう問題ではなく、ただそれほど隙間が狭かったのだということを理解して欲しい。
締まりそうな門の上を飛び越え、校内に入る。とは言っても、股間スレスレで校内に入った私は、お世辞にも格好いいとは言い難い着地をした。あれを着地というのかは不明だが、私のプライドもあり、そういうことにしておこう。
ドスン、と地上に私の体がつく音がして、胸に強い痛みを覚える。息がうまくできない。カヒュ、カヒュと通常の呼吸音とは異なった呼吸を繰り返していると、いつの間にか私の呼吸は通常のものへと戻っていた。
腰の次は胸か。やれやれ、相変わらず神は私を懲らしめたいようだ。信じもしない神を嘲笑い、私は立ち上がる。唖然とした門を閉める教師だけが、校庭で口をあんぐりと開け、突っ立っていた。

